2020年5月17日 苦境の中でも平安と希望がある

私は身を横たえて眠りまた目を覚ます。主が私を支えてくださるから。  詩篇3:6(1~8)

 詩篇の3篇は、表題が示すように、息子アブサロムの謀反に遭い、ヨルダン川東のギレアデに落ち延びた時のダビデの
である(Ⅱサムエル15:7~17:23参照)。
多くの者がダビデを見限り反乱側に寝返り、四面楚歌の危機的状況にあって、彼は「救いは主にあります」(8節)と告白した。
ダビデの信仰から学ぼう。
 《危機的な状況下で》この時、ダビデの助言者であったアヒトフェルも、息子アブシャロムの謀反に加担した。
「この謀反は強く、アブサロムにくみする民が多くな」り、「イスラエルの人々の心はアブサロムになびいてい」る状況
(Ⅱサムエル15:12~13)は、ダビデが王位を奪われるのも時間の問題と思われた。
息子の反乱に加え、信頼していた友や部下たちの離反は、老いたダビデに大きな衝撃と悲しみを与え、彼は
「主よ、なんと私の敵が
多くなり私に向かい立つ者が多くいることでしょう」(1節)と嘆く。
多くの者が「彼には神の救いがない」(2節)と決めつけた。つまり、ダビデは家来や民から見放され、神からも見捨てられ、
神の助けも望めない身だと言い立てて、神を拠り所とするダビデの信仰さえも否定し攻撃した。
それは、ダビデに耐えがたい苦痛と屈辱と動揺を与えた。
「お前が、どんなに神を信じようと、神からの救いなど来ることはない。信仰など何の役には立つものか」という
信仰を否定し、
嘲笑する無言の声は、キリスト者の周囲からだけでなく、自分自身のうちからも聞こえてくる。
この声に屈してはならない。ダビデはその声に抗して声を上げる。
 《しかし、神は私の盾、私の栄光》ダビデは、大勢の敵とわずかな味方に目を向けるのではなく
「しかし、主よあなたこそ」
(3節)と、見えない神に、「あなたこそ」と目を向ける。
後のパウロも「私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を
留めます。
見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです」(Ⅱコリント4:18)と記している。
神は、一介の羊飼の少年に過ぎなかった自分を召し、多くの苦難と長い年月を経て、イスラエル王にお立てくださった。
すべては、
神の導きと助けがあったからのことではなかったか。
その間、神に助けを求めたことは数知れず、その願いに、神はすべて答えくださったではないか。
その経験を思い起こし、ダビデは
告白する。
「私は声をあげて主を呼び求める。すると主はその聖なる山から私に答えてくださる」(4節)。
そして、「主よ、あなたこそ私の周りを囲む盾、私の栄光、私の頭を上げる方」(3節)と神をほめたたえ
絶望的な現在に、
希望と確信を見出す。幾万の敵であろうと私の前後を守る神の盾は揺るがず、苦境の中で萎れて
うつむく私の頭を、神はみ手を
差し伸べて持ち上げ、勝利で喜ばせてくださった。
彼は、今回の息子の反乱が、家族に対する自分の罪に起因することに気づき、
悔い改めて反省したことだろう。苦難は、人に罪を気づかせ、信仰を精錬し、人となりを育てる(Ⅰペテロ1:7、詩篇86:7等)。
セラは、強調を意味する記号と思われる。この歌詞を心に留めよと。
 《身を横たえて眠りまた目を覚ます》ダビデは今、逃げ落ちる途中で、迫る追っ手に怯え、恐怖と不安で眠るどころではない。
しかし、万軍の「主が私を支えてくださるから」(5節)と、信仰者は絶望の夜にも平安の眠りに就く。
「実に主は愛する者に眠りを
与えてくださる」(詩篇127:2)。
目覚めると、神が設けてくださる希望の朝に迎えられる。彼は、「私は幾万の民をも恐れない。
彼らが私を取り囲もうとも」(6)
と希望を確信し、神に向かって、「主よ、立ち上がってください。
私の神よ、お救いください。あなたは私のすべての敵の頬を打ち
悪しき者の歯を砕いてくださいます」(7節)と祈る。
動揺も消え、信仰に立つ王としての威厳をもって部下たちの前で祈る。
「救いは主にあります。あなたの民にあなたの祝福が
ありますように。セラ」(8節)と。
救いは、王座や兵力にあるのではない。それらはみな蜃気楼のようなものに過ぎない。
真の救いは、主なる神にある。ダビデは神に
祝福を願う。
彼の王座を奪い、追撃してくる反乱軍をも含めての民すべてに、神からの祝福を祈る。
まさにセラ、ダビデの信仰の言葉を、
噛みしめよう。
「わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)との
主イエスの言葉を、
彼は実践していた。

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