2022年5月22日 愛の配慮と使徒職の認識 ローマ15:14~15

2202年5月22日 愛の配慮と使徒職の認識 ローマ書15:14~15

私の兄弟たちよ。あなたがた自身、善意にあふれ、あらゆる知識に満たされ、互いに訓戒し合うことができると
この私も確信しています。ただ、あなたがたにもう一度思い起こしてもらうために、私は所々かなり大胆に書きました。
ローマ書15章14~15節(15:14~21)

パウロは、本書の1章からここまで、神の福音とその恵みを受けたキリスト者の生き方について述べてきた。
15章14節以下は、ローマ教会に対するパウロの個人的な挨拶などの結びである。今日は15章21節までから学ぼう。
 《愛の配慮》パウロは、一度も会ったことのないローマの教会のキリスト者たちに、この手紙を書いた。
その内容の密度は濃く、福音の根幹にかかわる事柄とその適応についての手紙である。
福音の真理と重要性やその適用の必要性から、厳しい文体となった部分もある(14:10等)。
パウロは「私は所々かなり大胆に書きました」(15節)と述べ、読む者への配慮の文をここに加えている。
真理は大胆に語るべきだが、愛の配慮も不可欠である(エペソ4:15)。
福音はまた、相手に聞かせるだけの「お説教」ではない。
福音の説教は、まず説教者自身への言葉として聞き、その上で会衆に聞いてもらうものである。
パウロも「あなたがた自身、善意にあふれ、あらゆる知識に満たされ、互いに訓戒し合うことができると
この私も確信しています。」(1節)と述べ、自分だけが知っていて、教えることが出来る者だとの誇りはない。
ローマ教会の読者たちが、互いに訓戒し合うことが出来る方々だと確信し、自分が書いたことはすでに承知している
ことだろうが、もう一度思い起こしてもらうためにあえて書いたのであり、自分が異邦人に福音を伝える役割を
主キリストに託されているからだと言う。
ここには、自分だけが正しく、自分だけがわかっている、という思い上がりはない。
彼の謙遜と善意と慎ましい姿勢に、私たちも倣いたい。
 《祭司の務め》パウロは、キリスト者の生活とは、自分自身を「神に喜ばれる聖なる生きたささげ物として献げる霊的礼拝」
(12:1)「あると教えた。
そうであるなら、信徒を見守り、導き支える伝道者は、祭司でもある。
パウロは自分の職務を、「私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。
それは異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれるささげ物となるためです。」(16節)と述べている。
伝道は、人を神のみ許に連れて行くだけで終わらず、その人が自分を「神に喜ばれる聖なる生きたささげ物として献げ」て
歩んで行こうとするように、励まし導くことである。
伝道は、人を立派にすることが目的でもなければ、社会に役立つようにすることでも、あるいは本人の抱えている
問題解決のためでもない。
人は誰もが神にふさわしくない罪人だが、その彼らが福音によって罪の赦しを得て、自分を神に喜ばれる
聖い供え物として捧げて生きるように、教え導き、また励まし助けることである。
その務めは、ひとり伝道者だけでなく、万人祭司の信徒相互の務めでもあり、各自が新しい人を着ることだとも言えよう
(コロサイ3:8~10)。
その働きを実りあるものにしてくださるのは、教会に働かれる「聖霊によって」(16節)である。
 《奉仕の主役はキリスト》パウロの宣教の働きは、異邦人伝道という新分野で、その活動範囲は「エルサレムから始めて
イルリコに至るまで」という広大さであり、彼の書簡は福音理解に欠かせない重要性を持つ。
彼の活動なしには、初期キリスト教の発展は望めなかったのではと思われるほどである。
しかし、パウロはそれらの業績を「私はキリスト・イエスにあって誇りを持っています。」(17節)と自分を誇らず
それらの業を可能としてくださったキリストを誇っている。
「誇り」という言葉は新約聖書中53回の中、47回がパウロ書簡に登場するが、パウロは「『誇る者は主を誇れ』と
書いてあるとおり」(Ⅰコリント1:31)と記し、自分や自分の業績ではなく
「キリストが私を用いて成し遂げてくださった」(17節)と、徹底してキリストを誇り、すべては、神の恵み
聖霊の力によるものとしている。
福音の未開の地への宣教活動(20節)をイザヤの言葉(52:15)に従ってと述べているが、その句は
「苦難のしもべ」への導入の言葉だ。
パウロは十字架の福音を伝えるにあたって、キリストの苦難に倣い、あえて困難な宣教の道を選んだのであろう(コロサイ1:4)。

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