2020年5月24日 平安の中に眠りにつく

平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。主よ、あなただけが、確かに、わたしをここに
住まわせてくださるのです。  詩篇4篇9節(1~9節)


 この詩は3篇に続き、息子アブシャロム謀反の兵を挙げ都に迫ろうとする報に接し、急遽エルサレムからヨルダン川東岸に
落ち延びようとした際のダビデの歌である。3篇が朝の祈りとすると、4篇は就寝に際しての夜の祈りと言われる。

 《嘲笑と反対に遭うが》
名君の誉れ高いダビデ王の治世に謀反が起こった。謀反の張本人が彼の息子では
言い訳のしようもなく親として立場もない。
親子が血を流し合う痛ましい事件である。信仰の人ダビデに起こった悲劇的な事件の遠因は、バテシバとの姦淫と
その後の家庭統治の不手際にもあった。アブシャロムの屈折した怨念と怒りと嫉妬も、原因の一つだろう。
しかし、それらを超えて、この事件がダビデに起こることを許されたのは神であるという事実を銘記しよう。
信仰に生きる者に、神は、時折厳しい試練を課してご自分に相応しい者へと引き上げられる。
問題に遭遇した時、いたずらに原因探しに走るのではなく、突き付けられた問題に、信仰をもって対処することが
私たちの責務である。
「人の子たちよ いつまで私の栄光を辱め 空しいものを愛し 偽りを慕い求めるのか」(2節)。
「人の子たち」とは、地位高く身分の卑しくない者たちを指し、異邦人でも無学な者でもない、信仰の民の中の学識豊かな、
指導的立場の者たちである。
「私の光栄」とは、ダビデが拠り所とし、篤く信頼する神を指す。彼らは、ダビデの信仰を嘲笑し、畏れ敬うべき神をも侮辱した。
「神に頼ってこのざまか。神がお前をこの窮地から救い出したりはしないし、出来もしない」と。空しい偶像を愛し偽りの
神々を慕い求め、真の神を畏れない人々の嘲笑は、息子の反乱で都を追われる身のダビデには、耐えがたい攻撃であった。
そこで、彼は天を仰いで祈る(参照詩篇121:1~2)。
 《神は私を義と認め》ダビデは昔、前王サウルに命を狙われマオンの荒野で追い詰められた時、神は「仕切りの岩」を
用いて彼を窮地から救い出し、寛やかで安全な所に移されたことがあった(Ⅰサムエル23:25~28)。
それを思い出して、神は「追いつめられたとき、私を解き放ってくださ」(1節)った、と彼は歌った。
ダビデの神は「私の義なる神」、つまり彼を義とし弁護してくださる神でもある。人はみな罪深く、ダビデも例外ではない。
彼は、「私はあなたにただあなたの前に罪ある者です。私はあなたの目に悪であることを行いました」(詩篇51:4)と
告白し「神よ私をあわれんでください。あなたの恵みにしたがって。私の背きをぬぐい去ってください。
あなたの豊かなあわれみによって。
私の咎を私からすっかり洗い去り私の罪から私をきよめてください」(同1~2節)と、神に赦しを懇願した。
そして悔い改めたダビデは、「するとあなた(神)は私の罪のとがめを赦してくださいました」(詩篇32:5)と
神の赦しと義とされた喜びを語っている。今回の事件も、自分の罪に起因していることをダビデは自覚している。
不安な夜を迎え、彼は床の上で静まり、彼の「義なる神」にあわれみと赦しと解決を祈った(1、4節)。
 《神は聖徒を特別に扱う》そして、ダビデは確信する。「知れ。主はご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。
私が呼ぶとき主は聞いてくださる」(3節)と。
不安と恐れは消えた。ダビデの神は、「ご自分の聖徒を特別に扱われ、私が呼ぶとき聞いてくださる」(3節)。
また、あわれみと恵みに満ちた「御顔の光を私たちの上に照らし、喜びを私の心に下さる」(6、7節)神である。
「良い目に会わせてくれるのは誰か、ダビデかアブシャロムか」(6節意訳)と、人々は、両者を天秤にかけている。
ダビデは、神の豊かな「御顔の光」を自分の側だけではなく、「私たちの上に照らしてください」(6節)と、反乱者側も
同じ信仰の民、彼らの上にも及ぶようにと祈る。今や神の特別な処遇を確信したダビデは、「主よ、ただあなただけが安らかに
私を住まわせてくださいます」と感謝し、暗黒の夜、「平安のうちに私は身を横たえすぐ眠りにつきます」(8節)と
長かった逃避行の一日を閉じることが出来た。
始まったばかりの我が子の謀反だが、どちらにしても悲劇的な結末を迎えざるを得ない。
子の怨念を想う親の心はつらく苦しい。状況は暗い。だが、神はご自分の聖徒を、人の思いを越えた形で扱われる。
ダビデは、万事を主に委ね、平安の眠りに就いた。
明日、神は私をどのような特別の扱いをしてくださることかと期待しながら(Ⅰペテロ5:7)。

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