2022年5月8日 死は勝利に飲まれる Ⅰコリント書15:54~55

2202年5月8日 死は勝利に飲まれる Ⅰコリント15:54~55

そして、この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき
このように記されたみことばが実現します。「死は勝利に吞み込まれた。」
「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。」Ⅰコリント書15:54~55(15:35~58)

キリストの救いは、罪の呪いから私たちを解放し神の恵みが与えられるだけではない。
神と人とに仕える新しい生き方に召され、地上での生涯を終えても、神の御国で生きる復活の約束が与えられている。
 《キリスト者は復活する》アダムから死が、キリストから復活が私たちに与えられた。
「キリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。」(20~21節)。
「初穂」とは、神殿に奉納されるその年の収穫の最初の一束を指し、その後のすべての収穫物を代表する。
初穂のキリストに続いて、私たちも必ず復活する。
キリスト者の死者を、「眠った者」と表現している(18、20節)のは、「キリストにあってすべての人が生かされる」(22節)
とあるように、死んだとしてもまた目覚めて起きるからだ。
先日ある姉妹の葬儀があったが、故人の数々の愛のエピソードが家族や友人たちから披露され
やがて御国で再会できることを楽しみに、各自に残されている地上の生涯を生きて行こうという、明るく幸いな時間であった。
キリスト者の死は、終わりではない。地上での営みを終えて、御国での復活につながるしばしの眠りに過ぎない。
 《復活は新しいからだで》復活するのは、人間の魂だけではない。魂も含むからだの復活が強調されている。
「ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
この朽ちるべきものが、朽ちないものを必ず着ることになり、この死ぬべきものが
死なないものを必ず着ることになる」(52~53節)とあるように、単に生前のからだに再生するのではなく
新しいからだを与えられて復活する。
「朽ちるもの、卑しいもの、弱いもの、血肉のからだ」で蒔かれ、「朽ちないもの、栄光あるもの、力あるもの
御霊に属するからだ」によみがえらされるのである(42~44節)。
肉体の束縛から解放された人間は、魂だけで生きるのではない。
パウロは、信仰者の各自が教会という共同体を構成する各肢体であると述べている(Ⅰコリント12:12~27)。
キリストのからだの一肢体である私たちは、終わりの日に、ラッパの響きと共に、新しいイスラエルの
ひとりとしてよみがえり、勝利の喜びを共に賛美する合唱に加わるのである(黙示録15:3)。
私たちは孤独の中によみがえるのではなく、愛し愛される天の仲間の中によみがえることを忘れてはならない。
この復活を告げる章全体に、繰り返し「私たち、兄弟たち」と呼び掛けているように、復活は教会への祝福の約束であり
復活信仰は、教会の大切な信仰である。
 《堅く立って動かされず》人間にとって死が恐怖であるのは、肉体の痛みではない。
自分が神の怒りを受ける罪人であることを漠然と承知しているからだ。
「死のとげは罪」(56節)の罪とは、神の恵みに自分を委ねて生きようとしない心である。
福音を拒む者は「死のとげ」に怯えて、死を迎えなければならない。
しかし、キリスト者は、「だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。
だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが
神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです」(ローマ8:33~34)と断言できる。
それで、「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか」と叫び
「神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」(55,57節)と喜ぶことが出来る。
このような将来があるのだからと、パウロは声を大にして、「私の愛する兄弟たち。
堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。
あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから」(58節)と励ましている。
喜んで主の業に勤しもう。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


PAGE TOP