2022年7月10日 小さな群れよ、恐れるな ルカ12:31~32

2022年7月10日 小さな群れよ、恐れるな ルカ12:31~32


むしろ、あなたがたは御国を求めなさい。そうすれば、これらのものはそれに加えて与えられます。
小さな群れよ、恐れることはありません。あなた方の父は、喜んであなたがたに御国を与えてくださるのです。


 《神の国の到来》
 今日は、不安の時代とも言われている。
物質が万能と見なし、見えるものにだけ頼る生活は、目に見える物は尽きる時が必ず来るので
不安が付きまとう。
だが、私たちは、神の国が到来しその市民であることを忘れてはならない。
全能にして永遠の神の支配下に生かされている存在である。
主イエスは、兄弟との遺産分配で争っていた者に、「自分のために蓄えても、神に対して富まない愚か者」
(20~21節)の譬えを語って注意された。
自分を支えてくれるものは能力と金だけだと思い込んで、その有無にこだわることは愚かさである。
「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」
(Ⅰペテロ5:7)と、信頼すべきは神である。
主イエスは、心配は神に任せて、神の御心に従って歩む大事さを烏や野の花から学ぶようにと
弟子たちに教えられた。
「烏のことをよく考えなさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、納屋や倉もありません。
それでも、神は養っていてくださ」るではないか。
また野の草花も「働きもせず、紡ぎもしません。
しかし、わたしはあなたがたに言います。
栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装ってはいませんでした」(24、27節)と。
私たちが求めるべきは富でも力でも栄誉でもない。
目に見えない恵みの神の支配下に生かされているという事実に気づいて喜び、信頼して
王なる神のみ旨に従うことだ。他はすべて添えて与えられる。
「まず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて
与えられます。」(マタイ6:33)。
 ≪私たちはその神の国の民≫ 私たちの柏伝道所も小さく、無力である。何かをしようと、人数を数え
費用捻出の可否を計算すれば、可能なことは限られる。
だが「あなたがたは御国を求めなさい。
そうすれば、これらのものはそれに加えて与えられます。小さな群れよ、恐れることはありません。
あなた方の父は、喜んであなたがたに御国を与えてくださるのです。」とのイエスの励ましの言葉が響いている。
私たちは小さくとも、私たちが信頼して仰いでいる神は大きい。何よりも大きい。誰も敵対できない。
神はまた、「わざわいはあなたに降りかからず、疫病も、あなたの天幕に近づかない」し
「彼がわたしを呼び求めれば、わたしは彼に答える」(詩編91:10、15)と保証しておられる。
使徒パウロも「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえも惜しむことなく死に渡された神が
どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。」
(ローマ8:32)と、その長い苦闘の宣教奉仕の経験から証している。
 ≪神の国の民の責務≫
 神は私たちをご自分の民として、ご自分の栄光のために用いようとしておられる。
種を蒔くこともしない烏が餌をついばんで元気に飛び回り、自らの衣装をあつらえもしない草花が
見事な装いをしている。
そのように、私たちも自分のすべてを神に委ねて、私たちを神に用いていただこう。
神は、ご自分の民を、ご自分の愛や正義の業に用いようとしておられる。
私たち神の民は、大いに用いていただくために、神に信頼して従って行こう。
それは、決して暗く強いられた難渋な生活を意味しない。
神の愛と恵み、聖と義、力と知恵を知り、驚き喜ぶ信仰の旅への招待である。
聖書は、信仰の先輩たちの数々のドラマに出合わせ、感動を与えてくれる。
そして同様の冒険へと、私たちを誘い出す。聖霊の神も、助け主として同行してくださる。
私たち神の国の民は、世の流れに従う滅び行く民ではない。
その流れに逆らい、何を差し置いても「まず、神の国と神の義を求め」(マタイ6:33)
神の支配に生きる市民である。
「あなたがたの御国を求めなさい」(ルカ12:31)とは、自分の王としてイエスを仰ぎ、信頼して
従うことだ。神の国の市民として、今一緒に踏み出そう。

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