2022年7月17日 私たちは遣わされている者 ルカ10:1 コメントする / 聖書メッセージ / By 三澤隆男 2022年7月17日 私たちは遣わされている者 ルカ10:1 その後、主は別に七十二人を指名して、ご自分が行くつもりのすべての町や場所に、先に二人ずつ遣わされた。 ルカ10:1(1~12) 《キリスト者は、遣わされている者》 主イエスは、「ご自分が行くつもりのすべての町や場所に先に二人ずつ遣わされた」(1節)。 同様にキリスト者は皆、キリストの証人として遣わされている。 イエスの世を去る前の言葉は、「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」(マタイ28:19) という、福音宣教の派遣命令であった。 十字架の前日、「あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。」(ヨハネ17:18) と、イエスは祈っておられた。イエスがこの世に派遣されたのは、私たちを派遣するためでもあったのだ。 「助け主」(ヨハネ14:26)の聖霊を受けたのも、私たちのためだけに止まらない。 私たちが「地の果てまで、わたし(キリスト)の証人とな」るためであった(使徒1:8)。 光は周囲を照らす。そのようにキリスト者の誰もが、周囲を照らす存在となるようにと、イエスは私たちに 「あなたがたは世の光です。」「あなたがたの光を人々の前で輝かしなさい。 人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。」(マタイ5:14、16)と言われた。私たちキリスト者は、福音の証言者として派遣されている者であることを自覚しよう。 今日も、この礼拝の終わりに祝福を受け、それぞれの家庭、職場や学校などに派遣されて行く。派遣先では、未信者の方々と同じく仕事や学びに従事する。キリスト者は、それらの業を通して、主イエス・キリストを証しするという責務を担って派遣されていることを忘れてはならない。遣わされているのは、牧師伝道者だけではなく、私たち教会員の全員である。 《遣わされている者の資格は主の指名》派遣された者は、「主は指名して(選んで)」(1節)とあるだけで才能や人格、信仰などに優劣には触れていない。 「自分たちの召しのことを考えてみなさい。 人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。 しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために この世の弱い者を選ばれました。」(Ⅰコリント1:26~28)とあるように、無力無能な者、犯罪歴のある者をも神は選んで用いられる。 「自分には出来そうもない、その資格は無い」と怯んだり、言い訳してはならない。 自力では、誰も福音の証人とはなれない。だが、キリストの選びに間違いがないとすれば、キリスト者の誰をも神は用いてくださる。 「私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって私たちから出たものではないことが明らかになるためです」(Ⅱコリント4:7)。 《遣わされている者の心得》派遣された者は、「財布も袋も持たず、履き物もはかずに行主が「行け」と言われるなら、即座に行く。神が必要を備えて下さる。 神は、「アドナイ・イルエ、主の山には備えあり」(創世記22:14)の方だ。 父からこの世界に遣わされた主イエスは、無一物の赤子としてお出でになった。 派遣主は、「わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に子羊を送り出すようなもの」(3節)と危険を承知しておられる。 職務に必要な支えをお与えくださる。道端で、長々と挨拶し、世間話に時間を浪費せず「神の国があなたがたの近くに来ている」(9,11節)と伝えることだ。 時を惜しんでより多くの方々に、何とか伝えようと、派遣の職務を全うするよう努めよう。 私たちは、派遣された者であるゆえに赴かなければならない。 先ずは出て行き、人との接点を見出し、語りかけることが職務である。 これまで、この職務遂行のためにどれほどの犠牲を払い、努力して来たか反省しよう。 改めて、自分が今、遣わされている身であり、今、自分が証しすべき相手が誰かを確認しよう。 証しの際に問われるのは、伝えようとする福音を、自分自身が喜んで味わっていることであり相手への愛と福音を伝える言葉を持っているかである。伝道は、自分の信仰を再確認する好機ともなる。派遣の務めに励もう。 聖書メッセージ一覧へ戻る 投稿者プロフィール 三澤隆男 最新の投稿 今日のみことば2023.03.132023/03/13 ローマ14:8 今日のみことば2023.03.122023/03/12 ローマ13:13 今日のみことば2023.03.112023/03/11 ローマ12:2 今日のみことば2023.03.102023/03/10 ローマ11:3